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大阪明鏡塾講座Ⅱ

「大阪・明鏡塾1期」講座Ⅱの感想文。 助手の長谷川君からです。 ::::::::::::::::

冒頭の「前講座から今日までの変化」で言葉についてお話をさせて頂きました。 経緯は東京明鏡塾3期の時に、日野先生からは「言葉は接着剤」である。 というアドバイスを直接頂いていたからです。 その時は、なんのことか全く見当がつかなく忘れていました。 しかし、1月の大阪明鏡塾後から何故か分かりませんが、その言葉が自身の問題として浮かび上がってきました。 理由は分かりませんが「言葉は接着剤」という言葉が頭から離れなくなったからです。

そこで早速前回の明鏡塾の後に、感想文で文章を作成してみました。 確かに、自分の言葉で文章を書いているような気がするのですが、読み返すと自分の言葉と誰かの言葉(明鏡塾で言えば日野先生)を混同しているように思えました。 自分の言葉と誰かの言葉の判別が付かなければ、自分の考えていることや実際にやっていることが明確にならないのです。 文字面を追えば意味は通じているように思われます。 しかし、中身はその言葉を使っている自分に取って曖昧なものであり、自分で書いたものが自分でも分からないという現象が起きました。 そのような文章では利き手にも伝わらないと思います。 伝わらないというより、そもそも中身がない言葉であると思います。 そのあたりを曖昧にしていても、世間では互いにコミュニケーションを取れていると勘違いしているのです。

「自分の言葉」という部分を切り取れば、「自分の言葉」はどのように形成されるのかという疑問が湧いてきます。 自分の言葉という表現を用いるところには、その人自身の背景や経験があるはずです。 それらを通して生まれてきた言葉は「自分の言葉」として使用できるのではないかと思います。 決して誰かの経験を介して自分の言葉にはならないと思います。 また、誰かが使っている言葉はそのまま自分のものとして使用することもできないと思います。 さらに、自分の言葉を説明して相手に伝えることができるようになることが、自分の言葉を自分の言葉として使用できるようになることです。

その意味で、日野先生が再三述べているように小学校4年生でも理解できる言葉で説明できるようにする作業を要すると思います。

反対に「誰かの言葉」は何であるか?という疑問です。 「誰かの言葉」は自分以外の他者が用いている言葉です。 他者には他者の背景や経験があり、そこから生まれてきた言葉です。 自分と他者の背景や経験はその人それぞれの人生の歩みの中で培われたものです。 私は他者になることはできない。

他者の人生を歩むことは決してできない。 その意味で共有はできないのです。 言葉に含まれている背景や経験は全く同じように共有はできないからです。

一方で、共有できる言葉もあります。 それは固有名詞です。明鏡塾でも説明がありましたが「この部屋」という何かを指し示す場合です。 目の前にあるリンゴを共通言語として「リンゴ」という言葉でも共有できます。 事務的な連絡などで会話を成り立たせるために共通言語を共有できなければ支障をきたしてしまいます。

最も厄介なのが共通言語でありながら、使用する人それぞれに意味合いが異なる言葉です。 明鏡塾で言えば「触れる」という言葉が共通言語として使用されます。 明鏡塾参加者であれば「触れる」という言葉で互いに話しは通じているように思います。 しかし、それぞれが指す「触れる」という言葉の意味や中身は異なるのです。 日野先生が用いる「触れる」と自身が用いる「触れる」という言葉には違いがあるはずです。 私の場合であれば日野武道に通い始めて3年という経過の中で経験した事象の範囲でしか「触れる」という言葉を言語表現できません。 一方の、日野先生は3年という年月の十倍以上もの時間をかけてそのことに取り組んでいます。 このときに、同じ「触れる」という言葉を用いても全く同じにはなりません。 その経験や思考の深さにより意味するところは異なるのです。

稽古における”背中に触れる”のように同じ姿形で再現できたとしても、その質という部分では大きな違いがあるのです。 「触れる」という言葉を用いるときに、自分が用いている「触れる」という言葉はどの程度のレベルでものを言っているのかを自覚できるかです。 大方はそれを自覚せずに同じ言葉を使っているから、如何にも同じレベルで話しをできているように錯覚してしまうのです。 例えば、触れるにおいても始めての参加者は「(肉体に)丁寧にやさしく触れる(触れているつもり)」ですが、日野先生は肉体だけでなく「触れる」により精神に触れると仰っていました。 この差は言葉においても明らかに異なるものです。

「自分の言葉」を「自分の言葉」にするために現在行なっていることは、会話をすること、文章を書くこと、会話や書いた文章に対して本当に自分の言葉であるかを判別すること、自分に取って曖昧になっている表現がないか探すこと、曖昧な言葉を簡易な言葉を用いて表現すること、単語を一般用語(辞書的な意味)として理解することを行なってみようと思います。 「言葉は接着剤」を考えるためには今一度、現在思いつく限りの方法で経験を増やしていこうと思います。

◯背中に触れる 

背中に触れるときには余計なことをしないことが、最初にぶつかる問題です。 余計なこととは、考える、迷い、躊躇するといった類いことです。 ここで最初にすることは背中に触れている手の感覚を意識すること。 感覚だけに注意を向けることです。 大方は、そうしているつもりになっているだけであり、思考(雑念)が湧いてきているはずです。 頭の中がうるさく、静かな状態とは反対の状態です。 最初の内は分かっていても、感覚だけに注意を向けることができないものです。 もちろん自分もまだ触れているときには余計な思考は湧いてきますが、以前に比べるとかなり減っているように思います。 とにかく、繰り返し感覚に注意を向けるようにしていきました。 時間はかかりますが変化していくはずです。 稽古の中にも組み込まれているはずです。

もう一つ、背中に触れる稽古でおもしろいことが、その人の普段の癖が現れることです。 診察・治療中や普段の生活における、ついやってしまう癖が現れてきます。 相手に不快感を与えるものです。 それが受け手にとっては違和感として感じられます。 物理的に背中に触れている手そのものに違和感がある場合ももちろんあります。 それとは別に感じる違和感があるのです。 その違和感の正体や原因は、触れている人自身にしか分からないものです。 受けてからの感想はあくまでも他者の感ずるところです。 それがヒントになることもあれば、弊害になることもあります。 誰の言葉やどの言葉あてにするのか。 それも稽古の一貫です。 そこの見極めができなければ余計な言葉に振り回されることになります。 相手からの分からない言葉は、どうでもいい場合もあるし、自身の解決すべき課題につながることもあります。 自分が相手に与えている違和感は、総じて自身の課題と関係しているように思います。

◯腕を触れる(寝た人の腕を持ち、引き上げる)

前回の明鏡塾でも取り組んだ稽古ですが、自分にとっては一層難しくなった稽古でした。

寝ている人を引き上げるという意味では同じであるし、稽古中に起きる現象も寝ている人が起き上がるため同じですが、より緻密な操作と感覚が要求されました。 前回は相手の肘⇒肩⇒背中とざっくりと大きく感覚を通すことだけで行なっていました。

今回は人差し指を使用して運動を誘導する。 肩の動きから二の腕の捻れで背中をつなげる。 この二つの要素の感覚が掴めませんでした。 人差し指で誘導しようとするが、それ以外の指が力んでしまい余計な力が生じてしまいました。 余計な力は相手の動きを別の方向へ誘導してしまうため、肩を回すことができない、背中につながらないといった現象が起きていました。 余計な力が抜けて上手くいっていると思われるときは感触が不透明であり、どこを通っているかということを感覚できていませんでした。

二の腕の捻れで背中をつなげるという部分に関しては、前回の明鏡塾で行なっていたことと混同していたようです。 現在、自分の身体で動きを確認してみると肩から背中へのつなげる経路が異なるように思います。 前回と同じという思い込みのまま進めてしまったため、一見同じことをしていても意識が違う方向に誘導されるため、中身は全く別物となってしまったように思います。 また、この稽古では何度も日野先生の手本をみる機会がありました。 手本を見た直後はうまくいくという現象が度々起きました。 見たものをそのまま自分の身体で再現する能力を人は持っていると実感しました。 ここで大切なことは自分勝手な解釈を加えないことだと思います。 見たことをそのままやる。 それが近道と思います。 さらに加えると、そこから課題となる部分を取り出して練習することです。 全部ができる、全部ができない(当人のできる、できないのレベルの問題もあります)ということはないはずです。 真似をして全体像を掴むことに加えて、部分に分けて課題をみつけて取り組むこと。 これにより課題への取り組み方や手本のみかたも、それぞれ異なってくるのではないかと思います。

◯歌 目で聴く

前回に比べると、聴きにいく姿勢になってきている人が増えているように思いました。 聴きにいくことが入り口になります。 日々の生活における聞くという行為は、相手の言葉の意味を解釈しているに過ぎません。 日常会話は意味と意味のやり取りだけになってしまっています。 その延長で稽古に取り組もうとしても何も起きません。 自ら必死になって聴きにいくということは生活の中では経験していないと思います。 二人一組の稽古ではIさんとOさんのペアの場が静かになり、自然とそちらに注目してしまうこともありました。 第二回でそのような場ができあがるとは思いもよりませんでした。 伝える・聴くということを通して「関係性」の一端を実感されたと思います。 同時に普段の会話において伝える・聴くということをしてこなかったか痛感したと思います。 言語化の難しいところではありますが、現場においてこのような姿勢で患者さんと関わることができれば、今まででは予想の付かない結果が現れてくると思います。 現場における患者さんとのやり取りにおいては、こちら側から伝える・聴くということを続けることです。

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医療系の講座やセミナーでも、最近「向かい合って」とか「意識を合わせて」という言葉が並ぶようになってきている。 また、頻繁にあるのが「コミュニケーション」だ。 もちろん、それらは低次では成立しているだろうが、厳密には全く出来ていない。 というよりも、講師自体がそんな稽古を、あるいは、問題意識として自分に定着させ切磋琢磨している人がいるのか?と疑う。 というのは、もしもそれらの「言葉」が実際に現実化されているのなら、そんな姿勢や人相にはならないからだ。

「明鏡塾」では、そこだけを徹底的に修練する。 この長谷川くんの感想文で分かるように、こういうものの考え方を指導しているのだ。 その事で、自分そのものが成長する、同時に感覚も治療技術も成長するのだ。 しかし、逆に新しい治療技術を習ったところで、「それ」が出来るようになるだろうが、自分自身全体の成長には繋がらないし、自分の持つ治療技術全体の向上には結びつかないのだ。

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